花と音楽と沖縄と…

ただ単に、その日見たものを記録してるだけの日記です(^^♪

家族10人失った8歳に日本兵が銃を…「神様、助けて」 一人で生きた沖縄戦体験を初証言

★家族10人失った8歳に日本兵が銃を…「神様、助けて」 一人で生きた沖縄戦体験を初証言 金城節子さん(83)
2020年6月23日 06:30

 1945年6月中旬、本島南部の旧摩文仁村伊原。米軍が空からの爆撃と艦砲射撃で日本軍陣地に徹底的な攻撃を加える中、当時8歳だった糸満市糸満の金城節子さん(83)は、ひとりぼっちで戦場を逃げ惑っていた。「パーパー(おばあ)よ」。はぐれた祖母を探し、泣き叫ぶ少女に日本兵は「撃つぞ」と銃を向けた。その時、「ヒンギレー(逃げろ)」。近くから声が聞こえた。一目散に必死で逃げた。「神様、神様、助けて、助けて」。心の中で叫び続けた。


 沖縄戦から75年。戦争で家族10人を失った金城さんは、自らの体験を初めて語った。


 米軍が迫っていた45年6月。金城さんは母の富さんと弟の正一ちゃん、正康ちゃん、祖父の勝二さんと祖母のトクさん、親戚の美代子さん、父方の祖父の次良さんなど計11人で糸満の集落を転々と逃げ続ける中、次々に家族を失った。同じころ、日本軍は与座岳から国吉―真栄里―米須を最後の防衛戦として部隊を再配備し、徹底抗戦していた。米軍は空と海、陸から猛攻撃を加え、西側から摩文仁へ迫った。一家が逃げ惑った時期と経路は、まさに最後の激戦の渦中だった。


 実家のある糸満を出て国吉から真栄里に向かう途中、ちぎれた日本兵の足を踏んで驚いて歩けなくなってしまった金城さん。おぶってくれたのは祖父の次良さんだった。しかし次良さんは歩けなくなり、真栄里の手前で別れた。「お母さんたちに付いて行きなさい」。それが最後の言葉だった。


 真っ赤に防風林が燃える真栄里を通過し、伊敷にたどり着いた。金城さんと母の富さん、弟2人は屋敷内の石垣のそばに隠れ、他の家族は馬小屋に身を潜めた。金城さんは「パーパー(おばあ)のそばがいい」と美代子さんと場所を代わってもらった。


 「バーン」。10分もしないうちに、近くに落ちた爆弾が美代子さんを吹き飛ばした。即死だった。そばにいた母の頭上には、空から機銃掃射が降り注いだ。母がおぶっていた、末弟の正康ちゃんの頭を弾が貫通した。2人の遺体を道端の畑に埋め、先を急ぐしかなかった。


 けがをした母と、母を担いでいた叔父らが遅れ、伊原にたどり着いた時には、祖母と弟の正一ちゃんの3人となっていた。ガジュマルのそばに座った。そこに日本兵が来た途端、爆弾が落ちた。破片が日本兵の鉄かぶとに当たって跳ね返り、正一ちゃんの頭を直撃した。祖母は幼い孫の亡きがらを畑に埋め「後で迎えに来るから」とつぶやいた。


 祖母と2人だけとなり、逃げる金城さんの頭上には艦砲弾が「ヒューヒュー」と飛び交った。爆弾が近くに落ち、ついに祖母ともはぐれた。戻って祖母を探すが見つからない。たくさんの死体に紛れて米軍をやり過ごし、伊原の近くで米兵に背後から捕らえられた。


 戦後、金城さんは稼業を優先し、自身の戦争体験を公に語らなかった。日本兵に銃を突き付けられた恐怖や戦場での心細さは胸の奥深くにとどめたが、記憶は消えることはなかった。「ずっと苦しかった。この年になったら体験したことを伝えたい、という気持ちを我慢する必要はないと思った。本当に戦争は生やさしいものではない」


体験 次代へ継ぐ 今語らなければ 「戦争は人の心を鬼に」


 金城節子さん(83)=糸満市糸満=は戦後、自身の戦争体験を公の場で語ってこなかった。県遺族連合会と日本遺族会が主催する「平和祈願慰霊大行進」には毎年、参加した。しかし昨年、途中で体調を崩して歩くのを中断するなど自身の体力の衰えを感じた。「今語らなければ、もう残せないかもしれない」。切実な思いがあり、自らの体験を語る決意をした。


 沖縄戦で親戚や弟2人の死を目の当たりにし、はぐれた母や祖母を探し、戦場を一人でさまよった。逃げる途中、至る所に散らばる遺体を目にした。「シュー」。気付かず、膨れあがった遺体を踏むと音がした。内蔵がえぐれた日本兵の遺体が転がり、死んだ母親に寄り添って泣く子どもを目にしても、何も感じなかった。金城さんは「戦争は人の心を鬼にする」と振り返る。


 戦後は慰霊大行進を歩き、亡くなった家族を弔った。行進コースには金城さんが戦争中、家族と一緒に避難した行路が含まれる。当時は遺体であふれていた道は、今はきれいに整備された。家族が亡くなった場所の近くを通るたび「今年も会いに来たよ」と心の中で語り掛けた。


 自らの戦争体験を残したいと願う金城さんの気持ちを受け止めてくれたのは、またいとこの新垣康博さん(69)で、昨年11月から聞き取りを始めた。金城さんは「自分が死んだら終わりで、もう残せないと思っていた」と感謝する。


 体験を残したいと考えるのはもうひとつ理由がある。金城さんは沖縄戦の直後、旧具志川村前原の収容所に移され、孤児扱いとなったが、母方の祖母の姉・カメさんが収容所に迎えに来てくれた。カメさんの一家に引き取られ、カメさんの娘の玉子さんにも、よくしてもらったという。自らの体験を残し、感謝の気持ちを表したいと考える。


 沖縄戦から75年が経過した。戦後生まれの世代は、戦争の恐ろしさを真に受けていないのではないかと感じる。「戦争の苦しみは体験した人じゃないと分からない。戦争の教訓は平和だ。誰がなんといっても平和が大事なんです」。金城さんは力強く語った。(中村万里子)


★沖縄戦 動員された住民の被害、日本軍部隊駐屯地で拡大 1956~57年、琉球政府調査
2021年6月23日 06:00

 1945年の沖縄戦における住民の「根こそぎ動員」に関し、公開された資料や体験者への聞き取りから動員の経緯や状況などが明らかになっている。1956~57年に琉球政府が各市町村で動員に関わった人への聞き取り調査でまとめた「軍属に関する書類綴(つづり)」を本紙が確認したところ、第24師団の大隊や中隊が駐屯した高嶺村(現糸満市)では45年1~3月にかけ、男女約107人が炊事婦、看護婦、臨時雇用員、事務員などとして動員され、少なくとも75人が死亡した。ほかにも部隊が駐屯した地域で住民の動員人数が多く、非戦闘員である女性が巻き込まれるなどの被害も大きかった。


 大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員研究員の佐治暁人氏が「軍属に関する書類綴」を2014年に入手した。琉球政府社会局援護課は援護法適用に関し、戦死した軍属の調査を56~57年にかけ、県内各市町村で元兵事主任や当時の区長、生存者などに聞き取り調査し、綴としてまとめていた。同資料は、援護法適用にも活用されたとみられる。


 綴によると、西原村(現西原町)には第62師団の大隊などが駐屯し、女性65人が炊事婦、縫製工、看護婦などとして動員され、24人以上が死亡した。


 地域に駐屯する部隊が役場や区長、青年学校などに住民を入隊させるよう命じた。越来村(現沖縄市)など住民の避難壕を部隊が訪ね回り、直接入隊を求めた事例もあった。軍は住民を動員する権限がなかったが、住民は命令としか受け取れない状況だった。


 本紙取材に応じた沖縄戦体験者も、同様の状況を証言している。玉城村(現南城市)の当時16歳の女性は、区長から指示を受けて入隊し、従軍した。高嶺村の女性は、婦人会長と青年会長から「20歳までの女子青年は集まれ」と告げられ、公民館に集まった40人に日本兵が所属部隊を指示していたと証言した。「入隊は断り切れなかった」とも証言し、住民らにとって事実上の“強制”だった。


 住民の動員を巡っては、22年度から使用される一部の中学歴史教科書で「沖縄戦では日本軍はよくたたかい、沖縄の住民もよく協力した」などと自発的な意思による戦闘参加と受け止められる記述が問題となり、沖縄戦体験者が沖縄戦の実相がゆがめられていると反発している。


 「書類綴」を入手した佐治氏は「沖縄戦は本土に比べ、女子軍属の死亡者数の多さも突出している。資料や証言を基に実態の解明が期待される」と話した。(中村万里子)


★沖縄戦76年
2020年12月10日 12:03

 沖縄戦から76年。多くの住民が戦禍に巻き込まれ、おびただしい犠牲者を生んだ。二度と同じ過ちを繰り返さないように。大切な命を犠牲にしないように…。戦争体験者が少なくなる中、私たちは戦争を生き延びた人々の体験、思いを子どもや孫たちに伝え、つないでいく。


★【動画】3分で知る沖縄戦 なぜ県民の4分の1が犠牲になったのか
2017年6月21日 19:46

1945年3月~6月の沖縄戦は住民を巻き込んだ地上戦で、当時の沖縄県民の4人に1人が犠牲になりました。
沖縄戦とはどんな戦争だったのでしょうか。3分で解説します。


★【#慰霊の日に聴きたい歌】強かったあの名曲 ISSAさんオススメの1曲は?
2021年6月23日 06:30

 6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる「慰霊の日」。沖縄では県主催の全戦没者追悼式が開かれるほか、県内各地で慰霊祭が執り行われ、島中が不戦の誓いと祈りに包まれる。そんな慰霊の日に聴きたい曲は何ですか?琉球新報公式ツイッター、インスタグラムなどで聞いた。寄せられた中から特に支持が多かった10曲を紹介する。(玉城江梨子)


「泣ける」…HY、モンゴル800、Cocco、かりゆし58


 やはり多かったのは、沖縄出身のアーティストの曲だ。まずはHYの「時をこえ」。ボーカル&キーボードの仲宗根泉さんが祖母から聞いた戦争の話が基になっているこの曲には「毎年慰霊の日に聴いている」「涙が出る」などのコメントが寄せられた。
 この曲について仲宗根さんは2019年の取材でこう語っている。
 「戦争の映画などでは敵味方という描かれ方とするし、幼いとどうしても『どっちが悪い』と考えてしまう。でも実際に戦争を体験したおばあは『どっちが悪いじゃないよ。大事なのはみんな助け合うこと。命が大事だよ。命はみんな平等だよ』って言っていたんです」


 続いては、モンゴル800の「himeyuri~ひめゆりの詩~」。2015年の慰霊の日にYouTube内で先行配信。戦後70年への思いや平和への祈りを込めた一曲だ。ロック調の音楽に乗せ、歌詞には「平和と呼ぶには遠く 歴史にするには早く」「記憶に残せない深い傷を 慰める術はないものか」とメンバーの視線で歌っている。
 メンバーのキヨサクさんは6月23日、ひめゆり平和祈念資料館支援の有料配信ライブを行う。「沖縄戦を体験した人が家庭にいる割合がだいぶ減っている。ひめゆり平和祈念資料館が伝え続けていることはとても大事だし、語り部が高齢化し世代を引き継ぐ境目で自分に何ができるかを考え、支援ライブにつながった」と思いを語る。モンゴル800の楽曲はこのほか「琉球愛歌」にも多くの票が集まった。


 戦争には触れていないが、Coccoさんの「ジュゴンの住む丘」には「大浦湾に現れたジュゴンに捧げられた曲だけど、聴きたくなります。 当時、戦争に巻き込まれていくいろんな立場の人々に通ずる歌詞だなぁ…とすごく思うし、当時のとある人物にどうしても重なって。 聴きたいし、歌いたくなる曲です」との思いが寄せられた。


 かりゆし58の「ウージの唄」は沖縄の情景と戦場の記憶を紡ぎ、「憎むより愛せ」と歌う。ツイッターでは「『憎むより愛せ』という歌詞が泣ける」とコメントがあった。


サザンもミスチルも「沖縄」を歌う


 県外のアーティストの楽曲も沖縄戦や平和について歌ったものは多い。代表格はTHE BOOMの「島唄」。沖縄戦の悲劇と平和への思いを歌い大ヒットした一曲だ。ツイッターでは「わたしにとって沖縄のことを知ることができた歌。聴くたびに沖縄に思いを馳せる歌」というコメントがあった。


 ボーカルの宮沢和史さんは「沖縄を巡った時、ひめゆり資料館やチビチリガマなどを見て回った。沖縄戦のことを全く知らなかった自分に恥ずかしさを感じた。沖縄のことを知らない人が本土には多くいる。その人たちに伝えたい思いで“島唄”を広めた」と当時を振り返っている。


 Mr.Childrenのアルバムの一曲「1999年、夏、沖縄」を挙げる人もいた。サザンオールスターズの「平和の琉歌」は三線の音をバックに「この国が平和だと誰が決めたの」と問いかけ、「愛を植えましょう。この島へ」と歌う。この曲はネーネーズが歌ったバージョンを推すコメントもあった。


★Nenes 平和の琉歌

Nenes 平和の琉歌
289,066 回視聴2009/05/26


 「ざわわ、ざわわ…」というリフレインが印象的な森山良子さんの「さとうきび畑」は2番目に多い支持を集めた。戦争で死んでいった父親の面影を追う内容で、沖縄全戦没者追悼式の献花の間に流れている。


 作ったのは洗足学園大学元教授の寺島尚彦さん。初演は1967年。69年に森山さんがレコーディングし、さらに75年にNHK「みんなの歌」でちあきなおみさんが歌い(後に、森山良子バージョンも)広く知られるようになった。沖縄ではいつしか観光バスガイドたちが歌うようになったという曲だ。コメントでも「修学旅行で初めて沖縄に行ったときに、バスガイドの人が1番から全部歌ってくれて感動した。それ以来、沖縄といえば、さとうきび畑を思い出す」というエピソードが寄せられた。


★MEC691 さとうきび畑(フルコーラス完全版) 森山良子 (1969)150725 vL HD

MEC691 さとうきび畑(フルコーラス完全版) 森山良子 (1969)150725 vL HD
5,695 回視聴2020/12/05


沖縄音楽の名曲たち


 姉妹4人の民謡グループ「でいご娘」が歌う「艦砲ぬ喰ぇ残さー」も多くの人が「一曲」に挙げた。この曲はでいご娘の父で、音楽プロデューサーの比嘉恒敏さんが作詞作曲した。恒敏さんは学童疎開船対馬丸や空襲で家族6人を亡くした。戦後はでいご娘として活動する4人を含む7人の子に恵まれたが、1973年、米兵の飲酒運転で妻シゲさんと共に事故に遭い、死亡した。
 長女・島袋艶子さんは「父は最初の家族を戦争で失った。私たちが生まれた、とっても幸せな時に艦砲ぬ喰ぇー残さーができた」と歌について説明し「戦争を忘れることはできないけど、娘たちに歌わせたいなと思ったんだろう。この歌は私たちにとって父の遺言であり、応援歌だ」と語っている。


★デイゴ娘/DEIGO ♫ 艦砲ぬ喰ぇー残さー/ Okinawa Requiem ↝ TBNYD13

デイゴ娘/DEIGO ♫ 艦砲ぬ喰ぇー残さー/ Okinawa Requiem ↝ TBNYD13
55,818 回視聴2015/07/30


 沖縄出身、DA PUMPのISSAさんは、「喜納昌吉先輩の花」とツイートした。琉球新報の取材にISSAさんは「喜納昌吉先輩は沖縄を代表するアーティストの1人であり、『花』は平和を象徴している歌」とし、「自分も(テレビ番組で)歌った時に平和を願い、心を込めて歌った」とコメントを寄せた。


喜納昌吉先輩の花#慰霊の日に聴きたい歌 https://t.co/D6h34vZsnO
— ISSA from DA PUMP (@ISSA_from_DP) June 22, 2021


★喜納 昌吉 --- すべての人の心に花を

喜納 昌吉 --- すべての人の心に花を
988,746 回視聴2010/06/12


「県民歌」とも言える強さだったのは…


 圧倒的な支持を集めたのが「月桃」だ。沖縄出身の作曲家、シンガーソングライターの海勢頭豊さんが歌うこの曲は、沖縄全戦没者追悼式で児童合唱団が歌うほか、県内の小中学校の平和学習でもよく歌われている沖縄県民おなじみの一曲。
 ツイートも「小学校の時に合唱で歌いました」「子らが小学校の頃、毎年6月は学校でこの歌を歌っていたようで、家でも歌ってました。大学生になった今でも歌っています」「小さい頃からこの時期にはずっと聞き続けてきたし、この歌があったからこそ、遠い歴史の中であった出来事ではなくて、今も続いてる身近なものなんだという意識が自身に根付いてるんだと感じるから」などのコメントが寄せられた。
 発表したのは1982年。約40年を経てもなお歌い継がれている名曲だ。
 海勢頭さんは「『月桃』は、子どもたちが歌いやすいように明るいメロディーにした。この歌が学校で広がって、子どもたちが大人になっても歌い継がれていることはうれしい。平和な世をつくるために、戦争をしてはならないという『絶対平和主義』が沖縄の心だと思う。コロナ禍で平和教育をすることも難しい状況だが、せめて歌だけでも、歌い続ける勇気があれば、平和な世はつくれる。平和な時代をつくろうという勇気を持って、これからも皆さんに歌ってほしい」と語った。


★【フル】月桃(沖縄の歌)

【フル】月桃(沖縄の歌)
1,308 回視聴2021/06/20