知床の海|#718_大きな大きな力の下で、僕はこんなにも無力です
★(8:25) 2022/04/27 12:00
★2022年04月27日(水)
終日テレビで、僕の名前が呼ばれている。
知床の観光船、「KAZUⅠ」のトラブルだ。
北方領土やロシアに近いので、気になる。
知床の海は、4月でも冷たい。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りする。
僕は大学1年生の夏、友人と3人で北海道をヒッチハイクで一周した。
お金が無いので、東京から函館まで青春18か周遊券かは忘れたけども、上野から夜行列車で青森まで行った。
寝台にも乘るお金も無いので、列車の床で寝ていた。
連絡船で函館に着き、そこから鈍行電車で徘徊の旅。
ヒッチハイクと野宿の連続で、なんとなく襟裳岬に到達。
そこからまた内陸部を徘徊して厚岸、網走、そして知床。
1日に2~3便しかないローカル電車にも乘ったり、冷凍車の冷凍庫に乗り、凍え死にそうになったり。
ユースホステルに泊まる金もないのに、深夜の浴室に入り込み、その日知り合った人達とその辺にある酒を飲んで騒いでいた。
知床半島を巡り、KAZUⅠのような立派な船ではなく、数人乗りのモーターボートに乗り、あのルートを周遊。
釣り糸を垂らすとすぐに魚が食いついてきてすぐに20匹くらい釣れた。
釣れすぎるのですぐに飽きてしまい知床のあの断崖絶壁を眺めていた。
あの時、たしかに海は荒かった。
8月だったけど、かなり肌寒かった。
4月にあの海に放り出されたら・・・
考えただけで胸が痛む。
知る場所で、今回の事故が起きたので驚いた。
43年前、20歳の夏の記憶が鮮明に蘇ってきた。
知床のあとは、網走に行き、サロマ湖でバーベキューをしてから泳いだ。
ボートで湖の中央まで行き、湖面に飛び込んだけど、藻が足に絡まった。
3人でテントを張り、デコボコの土の上、サロマ湖畔で野宿。
小鳥の鳴き声で目が覚めたことを覚えている。
2年半前、公立紋別病院に講演に呼んで頂き、オホーツク空港に降り立った。→広域紋別病院で平穏死の講演|Dr.和の町医者日記
展望台から知床半島がはっきり見えて、40年ぶりに知床旅情を歌ったばかり。
★知床旅情 歌 加藤登紀子(3:27)
知床旅情 歌 加藤登紀子
262,707 回視聴2020/11/14
札幌に着いた時は、大通り公園にアイドルが来ていて握手してもらった。
その後もちゃんとした宿に泊まるお金もなく、地下鉄の駅で野宿した。
朝起きたら、頭のすぐ横を通勤客が足早に歩いていた。
要するにホームレスだったけど、なんとも平気だった。
若いっていいな。
見たら、「ヒッチハイカー」だと分かってもらえるから。
今なら、本物のホームレスそのもの、だけど。
明日、その札幌に行き、講演の前夜祭がある。
思えば43年後、ずいぶん、出世したものだ。(笑)
でも、寝場所が、野宿でもホテルでも宿坊でも、寝たら終わり。
明日から2日間、僕の世話をしてくれるのは真言宗のお坊さんの足立さん。
講演は全て断っているけども、弘法大師さんのお弟子さんはお受けした。
北海道を2週間位、徘徊しながら一周して全部で5万円くらいだったと記憶している。
最初から3人で「全予算5万円で」と決めていた。
ちなみに2人は、今、すごく偉くなり活躍中だ。
僕は、帯広の奥の足寄の奥にある陸別町を開拓した関寛斎の本も梅村聡先生と共著で書いている。→蘭学医・関寛斎―平成に学ぶ医の魂 | 聡, 梅村, 和宏, 長尾 |本 | 通販
明治初期、関寛斎は徳島の蜂須賀家のご典医を辞し、全財産を持って、帯広側から陸別に入り開拓をした。
なぜか?
ロシアから日本を護るためだ。
当時も今も、ロシアの脅威は変わらない。
しかし100数十年前に、身を呈して祖国を護るために、たしか73歳でマイマス43度の極寒の地を開拓し、移住した町医者がいたことは事実だ。
10年前、彼の没後100周年祭に参列した。→関寛斎100周忌|Dr.和の町医者日記
最後にピストル自殺を遂げた(享年82)場所に立ち、陸別の街を眺めた。
自殺の理由は、札幌農学校にいた実の息子との親子喧嘩だったと聞いた・・・
いろんな想いを胸に抱いて、明日、北の大地を踏む。
知床の海に祈りを捧げながら。
PS)
#717_共感しすぎて叩かれる、共感しすぎて泣けてくる、という人へ 長尾和宏コロナチャンネル - ニコニコ動画