花と音楽と沖縄と…

ただ単に、その日見たものを記録してるだけの日記です(^^♪

尾崎豊・没後30年|#717_共感しすぎて叩かれる、共感しすぎて泣けてくる、という人へ

★(8:32)   2022/04/26 12:00

★2022年04月26日(火)

尾崎豊・没後30年


1992年4月25日、尾崎豊はこの世を去った。

ちょうど没後30年の記念日にピアニストの名倉学は、トリビュートライブを決行した。

今日、4月25日は特別な日だ。

17年前に、尼崎市で、JR福知山線の脱線事故があった。

最後に生きて救出された若者は僕の幼馴染の息子さん。

そして、30年前のこの日に尾崎豊が亡くなった。

4月25日の早朝に発見されて、午後0時6分に死亡確認。

ちなみに、今日は、知床でKAZU1の26人が波にのまれた日でもある。

僕もKAZU、なので、テレビでその船名を連呼されるとドキッとする。

尊敬するピアニスト名倉学さんの追悼ライブは、外来診療があったために、半分しか観られなかったけど、圧倒的なボーカルにグイグイ引き込まれた。

尾崎豊の「最後のコンサート」のセトリ通りという入れ込みよう。

ライブのアンコール曲は、尾崎がこの世の最後に歌った歌だった。

「ダンスホール」(オーデイション版)👇


尾崎豊 オーディション
16歳の時にオーデイションで歌ったのがこの曲。
そしてこの世を去るのに、最期に歌ったのもこの曲だった。
なんとも言えない因縁だ。
今夜のライブは素晴らしすぎて、言葉に表せない。
ライブとは一瞬一瞬で消える「泡」のようなものだから、それでいいのだろう。
その場の「空気」を名倉ファンや有名歌手たちと共有できた幸せで充分だった。
名倉氏は昭和49年生まれだという。
彼が生まれる30年前は、昭和19年。
あの戦争の真っ最中、だった。
とのMC。
30年先と30年前を比較すると、感慨深い。
30年って、すぐ。
30年とは、短い。
あっと言う間だ。
ちなみに、30年後は僕はもうこの世にいない。
僕は、30年前の今日、市立芦屋病院の勤務医で、33歳だった。
若い!
ショックだったので後輩たちを引き連れて、カラオケボックスで朝まで歌った。
「尾崎―、なんで死んだんや!」と叫びながら、酔っ払って階段から転げ落ちた。
ゲロ吐きながらも、かわるがわる、大声で夜が明けるまで歌い続けた。
校舎の窓は壊さなかったが、カラオケボックスのグラスはすべて割った。
その時の後輩は、知らない間にみんな偉くなり、雲の上の大先生になった。
しかし、あの夜の出来事は、みんな死ぬまで絶対に忘れないはずだ。
30年前の記憶が、まるで昨日のように蘇ったのが今夜だった。
名倉さんに尾崎が降りていた。
ピアノとボーカルとギターの全部できるミュージシャンはそうはいない。
大谷翔平ではないが、二刀流だ。
というか、音楽の天才の領域の人だ。
28歳までトラック運転手をしていて、それからプロピアニストに。
ということで、名倉さんにとっても20周年の節目の年のイベント。
今夜は、声も歌い方も仕草も、なにもかもが「尾崎」そのもの、だった。
このライブのため、尾崎豊展(→こちら)を静岡までそれも初日に観に行ったというから、力が入っていた。
尾崎豊のWiki→こちら
僕と7歳違い。
今、彼が生きていたら、56歳。
父親は僕と同じで、自衛隊員だったことは、どこか嬉しい話だ。
僕は、昭和53年頃、埼玉県朝霞市の隣にある新座市に住んでいたけど、尾崎もその時、朝霞市に住んでいたので、どこかですれ違っていたかも。
尾崎は喫煙で退学処分を食らっているけど、僕も喫煙で、防衛医大を身辺調査で落ちた。
尾崎は新聞配達をしていたが、僕もしていた。
僕の場合は、集金までしていた。
極貧だった。
こうやって勝手に共通点を探しているが、そもそも、天才と比べるなんて失礼だね。
何が言いたいのか?
今、尾崎のパッションを思い出さないといけない。
抗わないといけない。
長い物に巻かれてはいけない。
後先を考えずに生きないといけない。
愛する人を護らないといけない。
死ぬ気で取り組まないといけない。
久々に、30年ぶりに、懐かしい「狂気」と再会した。
切なく甘い「狂気」と。
PS)
#716_医者が知らない、介護に必要な医療と薬の全知識 長尾和宏コロナチャンネル - ニコニコ動画
29日の札幌は、午前と午後はまったく別物です。
午前は、尊厳死の話。(無料)
午後は、映画とワクチンの話。(有料)
30日の神戸は、映画の上映前挨拶。
午後の大阪は、シンポジスト。
ついでに、5月7日の東大阪は、話して歌います。
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