花と音楽と沖縄と…

ただ単に、その日見たものを記録してるだけの日記です(^^♪

沖縄の戦場化防ぐため 県知事が国連で要請して 沖縄タイムス 論壇

(なぜ遺骨を掘り続けるのか 具志堅隆松さん(遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表))
★2022年9月20日 沖縄タイムス 論壇 沖縄の戦場化防ぐため 県知事が国連で要請して

沖縄県平和創造の森公園 | 糸満市

【お散歩スポット】糸満市_沖縄県平和創造の森公園 | ペットといつも一緒な情報サイト    おさんぽ沖縄

★2022年6月23日 07時12分
<社説>沖縄慰霊の日に 小さな骨が訴えること:東京新聞
 太平洋の潮騒が絶え間なく聞こえてきます。沖縄本島南部糸満市の「平和創造の森公園」。丘の頂に、沖縄戦や南方方面で戦没した東京都関係者十万三千五百柱を慰霊する「東京之塔」があります。
 黒御影石でできた塔の背後にはガジュマルやテリハボクが生い茂る崖が迫ります。四月下旬、沖縄戦遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」代表の具志堅隆松(たかまつ)さん(68)が小柄な体でこの崖を下りていきました。琉球石灰岩に囲まれた中腹の窪地(くぼち)まで来ると、ヘッドランプをつけ地面を探ります。
 「これが足の指、こちらはすねの骨ですね」。収集歴四十年の具志堅さんは、腐葉土の下から小石と区別がつかない数個のかけらをすぐに見つけ出しました。言うまでもない、沖縄戦の犠牲者とみられる遺骨です=写真。
◆迫撃砲弾がここで炸裂
 はっきりと形が分かったのは、人の歯。「このすり減り方からすると高齢の住民でしょう」
 次に拾って見せてくれた長さ七〜八センチの金属片の説明には身震いしました。「米軍の六〇ミリ迫撃砲の砲弾の羽根です」。ここで砲弾が炸裂(さくれつ)したのだ! 窪地は身を隠すのに適した場所だったけれど、米軍は見逃さなかった。骨や歯は砲弾に吹き飛ばされた兵士や住民のものかもしれません。
 「鉄の暴風」と形容された米軍の激烈な砲撃を想像しました。
 糸満市など本島南部は約三カ月に及んだ沖縄戦の後半、日本軍が司令部を置いた首里(那覇市)から撤退する道筋に当たり、住民を巻き込む激戦地となりました。沖縄戦跡国定公園に指定され、東京之塔以外にもひめゆりの塔や魂魄(こんぱく)之塔などの慰霊塔が多数あります。
 七十七年後の今、具志堅さんら多くの沖縄県民が強く抗議しているのが、一帯の鉱山開発による土砂を防衛省が名護市辺野古沿岸の米軍新基地建設現場で埋め立てに使おうとしていることです。
 具志堅さんが遺骨を拾って見せてくれたのは、その鉱山開発予定地に接した場所でした。一帯に散乱し、風化した遺骨を土砂から取り除くことなど不可能です。
 「戦没者への冒涜(ぼうとく)」「死者を二度殺すことになる」
 二〇二〇年に計画が明らかになって以来、具志堅さんら有志は沖縄や東京でハンストを行ったり、全国の地方議会に土砂の使用中止を求める意見書採択を求めたりしていますが、国側は本島南部の土砂を実際に使うか否かは未定として何も手を打とうとしません。
 防衛省は当初、現在採掘している本島北部と県外から土砂を持ち込む計画でしたが、県が外来生物侵入を防ぐための土砂搬入規制条例を設けたため、ほぼ全量を県内から調達する方針に転換し、南部をその候補地としたのです。
 一六年に施行された戦没者遺骨収集推進法が遺骨収集を「国の責務」としているにもかかわらず、地上戦の戦場となった沖縄への配慮はまったく感じられません。
 南部の土砂使用には県も「(沖縄戦で)多くの犠牲者を出した県民の心を深く傷つける」(玉城デニー知事)と反対の立場です。
 昨年五月、業者に対し採掘前に遺骨の有無を確認することなど自然公園法に基づく権限内で精いっぱいの措置命令を出しましたが、業者側は命令撤回を求めて国の公害等調整委員会に裁定を申請し、審理が行われています。
◆未完のままの平和の礎
 辺野古埋め立て土砂は国の調達価格が割高なので、早く参入したいのが業者の本音でしょう。
 沖縄平和市民連絡会員で、辺野古の軟弱地盤の問題をいち早く指摘した土木技術者の北上田毅(つよし)さん(76)は「このままでは県全土の乱開発に歯止めがかからなくなる」と危惧しています。
 県内全域での土砂採掘に遺骨の有無などの調査を義務付ける条例制定を県側に働きかけているのも「戦場になったのは本島南部だけではない」との思いからです。
 沖縄戦の組織的戦闘が終わった慰霊の日のきょう、県の式典が行われる糸満市の「平和の礎(いしじ)」には新たに判明した五十五人の戦没者の名前が石碑に刻まれ、刻銘者数は米兵らを含む沖縄県内外の二十四万一千六百八十六人に上ります。
 県保護・援護課によると、沖縄戦の日本人戦没者のうち、いまだ二千七百十九柱(暫定値)の遺骨が未収集といいます。
 すべての遺骨が収集され、平和の礎に名が刻まれるまで、沖縄の土が無造作に扱われることがあってはならない。崖に散らばる小さな骨はそう語りかけてきます。
*****
注:11/6の投稿記事から。ちょっとボケてますけど(^-^;
辺野古埋め立て土砂の問題もあるので調べてみました。

↑↑↑↑敗戦後、父の死亡広報を握り大声で泣いていた母の姿が目に浮かぶ(沖縄タイムス)
<用語>国頭支隊(宇土部隊) - 琉球新報デジタル
沖縄戦で本島北部の守備に当たった独立混成第44旅団第2歩兵隊。部隊長宇土武彦大佐以下500人。非戦闘員(民間人)を戦力化することを構想。日本軍の組織的戦闘が終わった1945年6月23日以降も北部山中で秘密戦を展開、住民スパイ視虐殺や食糧強奪を起こした。

前々回、本部町八重岳にある『中学徒之碑』をご紹介させて頂いたんですが、この『中学徒之碑』から、さらに八重岳の山頂に向かって約230mくらい進んでいくと、右側に舗装されていない脇道があります。その脇道を入って、約140mくらい進むと、前方に大きな説明板と木製の標柱があります。ここは、去った沖縄戦の際、旧日本軍の部隊が使用していた壕と野戦病院があった跡なんだとか。。。

沖縄県国頭郡本部町大嘉陽にある『国頭支隊本部壕・野戦病院跡』
≪ここは、一九四五年(昭和二〇)の沖縄戦の時、国頭支隊(球七〇七一部隊、俗称宇土部隊)の本部壕と、沖縄陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院)のあった跡である。
国頭支隊は飛行場のある伊江島の保持と、本部半島を中心に国頭郡内でゲリラ活動をして米軍を撹乱、釘付けにし、本島中、南部の作戦を容易にすることを任務とした。

『国頭支隊本部壕・野戦病院跡』の案内板。。。かなり汚れており、劣化も進んでました。
宇土部隊(隊長 宇土武彦大佐)は、大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成され、伊江島守備隊の第一大隊と、本島守備隊の第二大隊、砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊等から成る兵員約四千人である。
八重岳、真部山に布陣する国頭支隊は、四月十一日頃から米軍の空爆と艦砲射撃を受け、十三~十六日にかけて西海岸の渡久地方面と東側の伊豆味から進撃する米海兵隊の猛攻に合い、真部山で激しい攻防戦となり日本軍に多数の死傷者が出た。
十七日米軍は遂に八重岳北東頂上を占領、十八日敗走する宇土部隊を追撃して掃討戦は四月中続いた。
一方宇土隊長は四月十六日、米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄し、遊撃戦に移ることを命じ、第二遊撃隊のいる多野岳に後退した。その際、八重岳の野戦病院には多くの負傷者が遺棄され、この一帯は悲惨を極めたといわれる。

案内板左下にあった写真のアップ。《本部半島の日本軍司令部壕で、情報収集のため重要書類などをあさっている米第六海兵師団の情報収集班。(那覇出版社提供)》
この本部半島地域における戦闘で、軍や町役場の命で山中に避難した住民は却って戦火に巻きこまれ、軍人、軍属を含む町民一七五三人の尊い生命が失われた。本部町教育委員会≫・・・と書かれていました。
1945年4月16日の夜、名護市の多野岳へ撤退する際には、歩ける患者だけを連れていき、歩けない患者さんには、枕元に手榴弾と乾パンを配ったんだそうです。。。
本部町に残っている記録では、約300人くらいの負傷兵が取り残されたといわれているみたいです。。。
今現在、この本部壕・野戦病院跡一帯は、深い木々に覆われており、静寂に包まれていますが、70年前には、この場所で連日連夜、凄惨な出来事が繰り広げられていたのかと思うと、胸が締め付けられる思いでしたね。。。
もし、本部町八重岳を訪れる機会があれば、こちらにも足を運んでみてはいかがでしょうか。。。
1945年4月17日『馬乗り攻撃と火炎放射器』 - 〜シリーズ沖縄戦〜
『沖縄陸軍病院名護分院も、4月16日夜に八重岳の山下りをした。軍医、衛生兵、看護婦、なごらん学徒隊、歩行可能患者らおよそ70人が列を作った。歩けない多くの重症者の枕元に、自爆用の手榴弾を置いて去った。寝床の上で患者たちは、「海ゆかば」をか細く口ずさんだ。翌4月17日、夜明けとともに山下り集団が米軍の迫撃砲で狙い撃ちされた。この日、4月17日に米軍は八重岳の占領を終えた。そして多野岳の攻防へと移った。』(99-100頁)
《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 99-100頁より》
★沖縄戦から74年 雨の 八重岳/国頭支隊本部壕・野戦病院壕跡(1:01)

FP1 Highlights: 2021 Mexico Grand Prix
1,572 回視聴2019/06/23
説明 2019年6月23日午後12時55分頃、沖縄戦から74年目の慰霊の日に、雨に濡れる本部町・八重岳の国頭支隊本部豪・野戦病院壕跡を訪ねて手を合わせた。米軍の攻撃に日本軍が敗走する際、重症患者が置き去りにされ、自決を強いられた場所である。
yanbaru kanashi - YouTube
★【沖縄の戦跡】国頭支隊本部壕 & 沖縄陸軍病院 八重岳分院跡【沖縄戦】(4:53)

【沖縄の戦跡】国頭支隊本部壕 & 沖縄陸軍病院 八重岳分院跡【沖縄戦】
572 回視聴2021/05/02
沖縄陸軍病院八重岳分院跡(八重岳野戦病院跡)/沖縄県国頭郡本部町並里 八重岳の中腹にあった野戦病院跡。地下壕の形態をとらず、斜面に造った土台の上に小屋を数棟建て、小屋毎に手術室や病室などを割り振っていた。「沖縄県立第三高等女学校」の女学生で編成された「なごらん学徒隊」が看護補助に従事していた。
ゆっくりポチ太郎 - YouTube
コメント:
看板の説明書は大事ですね。埋まっているのは時間の流れを感じさせますね、戦争があった事を忘れ無い様に…こうゆう動画は大事です。ありがとうございます🙏ところで、この場所で亡くなった方の遺骨は何処かで埋葬されているのでしょうか?ちょっと気に成りました。↓
(返信)
私も移住した身で学生時代から調べていたくらいの知識しかないので、地元民ならもっと詳しく分かるかもしれません🐶未だに遺骨が見つかっていないとされる遺族もおり、その場合は亡くなったと予想される地域の慰霊塔や平和祈念公園で祈るようです。発見されて納骨されていればいいのですが、未だ発見されず地に埋まっていることもありえてしまうのですが…
沖縄で遺骨を掘り続けて40年 戦没者想う気持ちに「右も左もない」 遺骨収集団体・具志堅さん(Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE)

(写真はこちらから)

 子どものころ、セミやカマキリを獲りに近くの山に行くでしょう。すると鉄兜(かぶと)を被ったままの頭蓋骨を見つけちゃうことがあるの。あの頃、大声を出して逃げ出すと言ったらハブと出くわしたときか、頭蓋骨を見つけたときだったな」
 沖縄戦で犠牲になった人の遺骨収集を続ける団体「ガマフヤー(ガマを掘る人)」代表の具志堅隆松さん(67)は幼少期を振り返る。
 戦後76年。日常の中で「戦争」を感じる機会は減る一方だ。しかし、激しい地上戦が繰り広げられた沖縄の土の中にはいまも多くの戦没者の遺骨が眠っている。具志堅さんはそれらを収集し、可能な限り遺族のもとへ届ける活動を約40年続けている。何が具志堅さんをかき立てるのだろう。
収集遺骨、激戦地中心に300体以上
 太平洋戦争末期の1945年3~6月、住民を巻き込む戦闘が起きた沖縄戦では日本軍、連合軍、そして沖縄住民を合わせて約20万人が犠牲になったとされている。
 特に日ごとに陣地の奪い合いが行われるなど激しい攻防が繰り広げられた「シュガーローフ」(いまの「那覇新都心」)や、その後の米軍の攻勢によって日本軍、住民らが逃げてたどり着いた沖縄本島最南端の糸満市では多くの犠牲者が出た。
冒頭、具志堅さんが頭蓋骨を見つけたという「山」も、シュガーローフに近く、多くの日本兵が命を落とした丘陵地帯である那覇市真嘉比(まかび)地区を指す。
 具志堅さんは28歳のころ、他の団体が主催する遺骨収集に携わったことをきっかけに独自で収集を開始。当初は「人が恐がるようなことをなぜするのか」などと冷たい目線で見られた時期もあり「半ば隠れるように活動していた」と語る。活動拠点は上記のように本島南部地域が中心。これまでおよそ40年間に収集した戦没者遺骨は300体以上に及ぶという。
なぜそこまで遺骨収集に注力するのかを問うと、「戦没者の尊厳を守るため」と即答。DNA鑑定や所持品に残された名前を頼りに、遺族に遺骨を返してきた。自身も伯父が南太平洋パプアニューギニアのブーゲンビル島に出兵し、戦死した。
都市開発前に「遺骨収集を」
 具志堅さんの活動にスポットライトが当たったのは、2008年ごろ。幼少期に頭蓋骨を見つけた真嘉比地域に都市開発計画が持ち上がったときだ。「遺骨があることが分かっている場所。開発が進めば取り返しがつかない」
 積極的にメディアに露出して訴えたところ、国会議員を通じて舛添要一厚生労働相(当時)と面談することに。趣旨を伝えると、緊急雇用創出事業を使って実現したらどうか、と逆提案された。結果、県内でホームレスの支援を行う団体と共同して真嘉比で遺骨収集を実現し、わずか数か月で172体も収集することができた。
 厚労省とはその後も共同し、DNA鑑定で遺族のもとへ遺骨を返す取り組みも行っている。
身体の半分がない
 沖縄本島南部で見つかる戦没者遺骨の共通点は、上半身しかない、下半身しかないなど、1人分の骨がまとまっていないケースが多いことだという。「1人分の骨が揃って見つかることを我々は『完全体』と呼んでいるが、南部ではあまりない」
 これは攻撃によって半身が吹き飛んだ結果である可能性が高く、沖縄戦の凄惨さが残された骨からも伝わるという。
遺骨混じりの土砂で辺野古埋め立て「やめて」
 具志堅さんはいま、気がかりなことがある。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古沿岸への移設に伴う埋め立てに、遺骨が混じった土砂が使われようとしていることだ。
 埋め立てには県内の土砂が使われることになっているが、うち一部が糸満市など本島南部から採取されることになった。「ある日、遺骨収集をしていた場所の周辺の木が伐採されていた」のだという。
 普天間飛行場の辺野古地区への移設や、辺野古沿岸部の埋め立ては県内でも意見が割れる。具志堅さんが土砂問題を提起すると、「辺野古反対」の立場の人々がまず活動を応援してくれたと言う。しかし具志堅さんは、土砂問題は政治的立場を超えた問題だと訴える。
 「私も辺野古移設は反対。戦争につながるものは全て反対だから」と自らの考えを明確にした。
 一方で、遺骨が混じる土砂が埋め立てに使われることについては「本当は(政治信条が)右とか左、辺野古移設賛成・反対の問題ではない。埋め立てに使われることは戦没者の尊厳が損なわれようとしているということ。(埋め立て主体の)防衛省も前身は日本軍であり、その先輩らの遺骨が、当時の敵軍の基地を作るために使われようとしている」とし、辺野古移設に賛成する人々にも共感してもらいたい、と語った。
★沖縄戦75年…声なき声を遺族へ 遺骨収集「ガマフヤー」 具志堅隆松さん(2:36)

沖縄戦75年…声なき声を遺族へ 遺骨収集「ガマフヤー」 具志堅隆松さん
4,890 回視聴2020/08/09
暗いガマ(壕)の中から今でも掘り出される75年前の沖縄戦の犠牲者。閉ざされた狭い空間で、作業は、遺骨の声を聞き取ろうとする姿にも見えた。
 那覇市の具志堅隆松さん(66)は自らを「ガマフヤー」と呼ぶ。沖縄の言葉で「ガマを掘る人」のことだ。ボランティアで40年近く遺骨収集を続けている。
 具志堅さんの案内で7月末、沖縄本島南部の糸満市の山城壕に入った。この一帯は激しい地上戦が繰り広げられた末、旧日本軍の組織的戦闘が終結した場所でもある。
 「おそらく日本兵が使っていた茶碗です」と、泥だらけの手で差し出された。骨と石を選別できるように手袋は使わない。ヘッドライトを頼りにねじり鎌を使い、素手で土砂をかき分ける。
 ガマフヤーになったのは28歳のときに参加した遺骨収集作業が契機になった。「遺骨をほったらかしにしていることが信じられなかった」。
 これまで見つけた遺骨は400柱近い。しかし、せっかく収集した遺骨でも多くが身元を特定できていない。そのため国に対して、鑑定に必要な親族のDNA採取を行うよう要請したこともある。具志堅さんは「高齢化した遺族には時間がない。戦没者の遺骨を遺族に返すのは国の責任です」と訴える。
 約9万4000人の住民を含む20万人が犠牲になった沖縄戦。県によると約2800柱の遺骨が収集されていないという。具志堅さんは今日もガマに入る。犠牲者の声なき声を遺族へ届けるために。(写真報道局 納冨康)
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★【取材報告】沖縄『遺骨の語る声なき声』-沖縄戦戦没者遺骨と新基地建設 _Voice of People_Vol.8 / 安田菜津紀、佐藤慧(7:15)

【取材報告】沖縄『遺骨の語る声なき声』-沖縄戦戦没者遺骨と新基地建設 _Voice of People_Vol.8 / 安田菜津紀、佐藤慧
2,259 回視聴2021/04/30
『Voice of People』Dialogue for Peopleのジャーナリストが訪れた世界を、その地域に暮らす人々の声とともにお届けします。
【今回訪れた場所】沖縄県本島南部
具志堅隆松さんは40年近くにも渡り、沖縄各地で戦争犠牲者の遺骨を探し続けています。特に激戦地となった本島南部では、いまだに「どこを掘っても遺骨が出てくる」といいます。ところが、そんな遺骨の混じっているかもしれない土砂が、辺野古の新基地建設工事のための、埋め立てに使われるかもしれないというのです。「遺骨の混じった土砂を新たな軍事基地を造るための埋め立てに使うということは、戦没者の命の冒涜だと思います」
具志堅さんとともに旧日本軍の構築壕の中で見た光景から、是非みなさんもこの国の行ってきた戦争について、そして個々の命の尊厳について、一緒に考えていけましたら幸いです。
取材:安田菜津紀、佐藤慧
取材協力:具志堅隆松さん、やかぶー
編集:佐藤慧
制作:Dialogue for People
取材地:沖縄県本島南部
▶関係記事はこちら
遺骨の語る声なき声 ―沖縄戦戦没者遺骨と新基地建設―
(インタビュー)D4P Global Interview - YouTube
Dialogue for People - YouTube
★20210424 UPLAN 具志堅隆松さん ガマフヤーの講演(1:53:43)

20210424 UPLAN 具志堅隆松さん ガマフヤーの講演
813 回視聴2021/04/25
【沖縄戦首都圏の会】沖縄戦首都圏の会第14回総会・記念講演会
具志堅隆松「沖縄島南部の土を辺野古埋め立てに使うな!」
2020年9月、沖縄県糸満市米須の雑木林で手つかずのガマが見つかり、具志堅さんは沖縄戦戦没者の遺骨収集のために通い始めました。しかし11月、現場横の「鉱山(石灰石)」に採石場になったことを示す看板が立ち、具志堅さんは「辺野古の埋め立てに使うのか」という疑念を抱きました。昨年4月、防衛省は、辺野古の海で軟弱地盤が見つかったことを受けて、設計変更申請書を県に提出。その中で、懸案だった埋め立て用土砂の調達先について、初めて沖縄島南部も含むことを明らかにしました。沖縄戦戦没者の遺骨が眠る沖縄島南部の土砂を米軍基地建設に使わせてはならない!具志堅さんは声を上げ、今年3月1日から6日まで、県庁前でハンガーストライキを行って南部からの土砂採取断念と、知事の権限で糸満市米須の採石事業に中止命令を出すよう求め、「現状を多くの人に知らせたい」と訴えました。
具志堅隆松(ぐしけん・たかまつ)さん
1954年、沖縄県那覇市生まれ。沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表。1982年から遺骨収集活動を続けている。「9・29県民大会決議を実現させる会」会員。第45回吉川英治文化賞(2011年度)を受賞。
・著書『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。-サトウキビの島は戦場だった』合同出版(2012年)
U PLAN - YouTube

雨の中で「戦没者を二度殺さないで」と訴える具志堅隆松さん=14日、東京都千代田区
 【東京】アジア太平洋戦争が終結して76年となる15日の終戦記念日を前に、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松代表が14日、東京の靖国神社前でハンガーストライキを始めた。近接する日本武道館では15日に政府主催の全国戦没者追悼式が開かれる。
 式典のある15日まで戦没者遺族らに、名護市辺野古の新基地建設をめぐる政府による本島南部地域の土砂使用計画の中止を訴える。
 降りしきる雨の中で、具志堅代表は、沖縄戦の激戦地となった本島南部の土砂に多くの戦没者遺骨が遺されている点を踏まえ、「国家のために犠牲となった戦没者の遺骨が混じる土砂を基地建設に使うのは、人道上の問題だ」と訴えた。
 14日朝から15日夜まで、水とお茶だけで過ごすハンストを実施。計画中止を求めるビラを配布するなどして、式典に出席する戦没者遺族らに賛同を呼びかける。具志堅代表は、「日本全国の方が先の大戦について考える8月15日に合わせて問題を訴えるべきだと思った。一人でも多くの方に声を上げてほしい」と力を込めた。
ガマフヤーとは何?具志堅隆松さん他メンバーやブログ・沖縄での活動内容のまとめ! 
代表の具志堅高松さんはこれまで40年近く遺骨や戦争遺物を収集・記録してきており、ガマフヤー活動で感じた沖縄戦の真実を記録した本も出版しています。
ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。サトウキビの島は戦場だったAmazon