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【感動(^^♪】「中卒っぽい人生」から猛勉強 エステ→ウェブデザイナー→ライターに 「私っぽい人生」つづり最高賞/常連客が「勝手にクラウドファンディング」 コロナで閉店危機のダイニングバー救う~by沖縄タイムスさん

働くことをテーマにしたエッセーで厚生労働大臣賞を受賞し、喜ぶ山本優実さん=4日、那覇市
★2021年11月5日 12:39
「中卒っぽい人生」から猛勉強 エステ→ウェブデザイナー→ライターに 「私っぽい人生」つづり最高賞 
 第34回「働くってなんだろう」エッセー(社団法人日本勤労青少年団協議会など主催)若者の部で、那覇市のフリーライター、山本優実さん(34)=旧姓三好=の「私っぽい人生」が最高賞の厚生労働大臣賞に輝いた。高校を中退し、「中卒っぽい人生」を送ると思っていたが、エステやウェブデザイナーの仕事に出合って選択肢が大きく広がった半生を振り返った。
 山本さんは受賞に「すごくうれしい」と笑みをこぼした。フリーランスになって3年目。「働き方を見つめ直したかったのと、仕事に幅を持たせたいとの思いもあってエッセーに挑戦した。自分を正直に書いた文章を評価してもらえてすごいうれしい」と話した。
 香川県出身の山本さん。高校中退後、すぐに始めたホステスの仕事をしながら「中卒っぽい人生」を送るんだろうなと思っていたという。たまたま知ったエステの仕事に興味を持ち、「勉強嫌いだったのに、お金を払ってでも勉強したいという気持ちになった。頑張って資格も取れたのが自信になった」と振り返る。
 体調を崩してエステティシャンの仕事を離れた時に思い立ったのがパソコンの勉強。憧れていた文章を書く仕事をしたいと思い始めていた。ずぶの素人がいきなりウェブデザイナーの専門学校に飛び込み「ハード過ぎて当時の記憶がないくらい頑張った」。なんとか卒業し、すり減ったメンタルを癒やしに訪れた沖縄が気に入り、県内の会社でウェブ編集の職に就いた。
 「仕事と学びが、人生に多くの選択をくれた。働くことは自己実現。仕事を通して『私っぽい人生』を手に入れることができた」と話した。
 県内からは他に國吉真央さんが公益財団法人勤労青少年躍進会理事長賞を受賞した。エッセーは協議会のサイトに掲載されている。
令和3年度 第34回「働くってなんだろう」エッセイ入賞者

【若者の部】12作品掲載、【一般の部】3作品掲載してます(^-^;
【 厚生労働大臣賞 】私っぽい人生 沖縄県  山本優実
高校を中退した時、これからは「中卒っぽい人生」を歩むのだろうと思っていた。高校中退後すぐにホステスとして数年間働いたのは、他ならぬ「一番中卒っぽい仕事」だと思っていたからだ。きっとこのまま店で出会ったお客さんと恋愛して、なんとなく結婚するのだろう。それが私が当時描いた、安易な「中卒っぽい人生」だった。
ホステスの仕事に慣れてきた頃、たまたま友人のネイルについて行ったことがきっかけでエステという仕事を知った。19歳の頃だ。世の中にはこんな素敵な仕事があるのかと感動し、すぐに専門学校へ入学した。学費はホステスとバーのバイトを掛け持ちして全額支払った。勉強を好きになれなかった自分が、お金を払ってでも学びたいことに出会えて嬉しかった。周囲からは「遊びを全部我慢して偉いね」と言われたけれど、全然幸せで快感だった。
そして専門学校を無事卒業し、エステシャンになった。エステシャンとして働く自分は、自分で言うのも何だけど、とても輝いていた。技術や接客を磨けば磨くほど自信になったし、なにより女性が輝く瞬間に立ち会える仕事が誇りだった。
かれこれ6年ほど働いたのち、体を壊して一度離れることにした。当時26歳。技術職だからいつでも戻れる。そう自分に言い聞かせ、体を優先することにした。離れてからまずPCの勉強をした。周囲からは「遅い」と言われたが気にしなかった。
実は長い間憧れていた職業があった。文章を書く仕事だ。子どもの頃から日記をつけていた私は、文章を書くことが大好きだった。エステシャンの頃もブログを毎日書いていた。挑戦...してみようか。そう思った。思ったので挑戦することにした。
自慢じゃないけど学歴はないが運はある。奇跡的に入りたい会社への入社が叶い、Webの編集職につけることになった。企業っぽいところに務めるのは初めてで、最初はとても緊張したけれど、環境にも上司にも恵まれた。
会社はお金がもらえる学校だ。中卒の私でも学ぶ意欲があればいくらでも勉強できる。会社にはとても良い福利厚生があった。なんと本を会社のお金で購入することができるのだ。セミナーの受講も無料。天国だった。私は自分が思っていたよりも早いスピードで得たいスキルを習得した。
天国のような会社で3年間勉強させてもらった後、私は独立してフリーライターになった。気付けば中卒という属性なんて一切気にせず、好きな仕事を好きなやり方でやっている。奇跡だ。独立して3年が経ったが、相変わらず仕事にも仕事相手にも恵まれた生活を送っている。本当に奇跡である。
よく、大学では一般常識や勉強の仕方を学ぶと聞く。たしかに自分には教養が足りないと感じるシーンは多々あるし、学歴コンプレックスがまったく無いわけではない。だけどそれ以上に、社会に出てから得た学びの数々が誇りだ。
仕事のおかげで嫌いだった勉強が好きになった。仕事と学びが、選択肢のなかった人生に多くの選択肢をくれた。そういえば以前はとても人見知りだったのに、ホステスの仕事を通して人と話すのが好きになったし、エステの仕事は私に「やりがい」を教えてくれた。編集の仕事からは、人と仕事をすることはどういうことかを学んだ。今はフリーライターとして、企業の社長さんやお店を経営する人、農業をする人や地域活性活動を推進する団体など、色んな人に取材しているから、毎日が勉強だ。そういえば前の会社で出会った人と2年前に結婚した。尊敬できて尊重してくれる、素敵な人を選べる自分にいつの間にかなっていた。
働くことは自己実現だ。私は働くことでたくさんのものを手に入れることができた。出会ってきたすべての仕事がなければ、きっと当時描いていた「中卒っぽい人生」を歩んでいただろう。だけど私は、仕事を通して「私っぽい人生」を手に入れたのだ。従事したすべての仕事を心から誇りに思う。
【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】
「働く」とは「この人の役に立ちたい」と思うこと 沖縄県 國吉真央
私は、今年で社会人2年目。正確には“1年と11ヶ月目”である。何故なら今年の3月、休職してしまっていたからだ。朝起きられないほどのめまいに悩まされ、初めて心療内科を受診したところ、適応障害と診断された。契約終了まで一回も出勤できず退職することになり、前の職場にはかなり迷惑をかけてしまった。しばらく回復に努めようとも考えたが、空白の期間が長引けば長引くほど、社会復帰が難しくなりそうだと感じ、奮起し就職活動をした。
 4月からの新しい職場は、職種が前と同じであったため、これまでの経験を生かし、早く仕事に慣れていこうと意気込んでいた。だが、私は大きく、良い意味で裏切られることになる。同じ秘書室で働く、ベテランの先輩によって。
 正直、面接の時には少し怖い印象を持っていた。それは、まだ自分自身がカウンセリングを受け、不安定な精神状態だったのも影響していたと思う。秘書を絵に描いたような方で、座っている姿勢、話し方どれも洗練されており、かつ自然だった。ただ検定を持っているからという理由で応募した自分と比べると、差は明らか。浅はかさを見透かされていそうでとても不安を覚えた。
 ドキドキしながらも迎えた初日。彼女は「電話は今はとらなくていいからね」と言った。私は戸惑った。何故なら去年は、初日からすぐに電話番だったからだ。また私自身も、大学生時代に3年半アルバイトで電話応対の経験があり、自信はあった。しかし、やはり彼女の声のトーンや、話し方などを見ると、どれも勉強になった。そこで私は必要なことを忘れないようメモしていった。また、彼女も今のはどういう電話で、その場合はこのようにすると、一件一件の対応を丁寧に説明してくれた。
 そしてちょうど一週間が経ったある日。たまたま彼女が別の電話に対応中のところ、私のところの電話も鳴った。この時秘書室には別の課の先輩もいて、私を促し、そこで初めて電話をとった。緊張はしたものの、これまでにみっちり基礎を教わっていたので、臆することなく無事に対応することができた。用件を伝えると、彼女からは「大丈夫でしたか?ありがとうございました。」と言われた。
 このとき、私のことをちゃんと新人として扱って指導してくれるこの人に、恩返しがしたいと思った。去年は、全員がそうだった訳ではないが、非正規雇用なのだから、即戦力が当たり前、とまではいかないものの、やって当然、知ってて当然というように思われていると感じてしまっていた。考えすぎなのだが、正規雇用との差を猛烈に受けたのだ。中途半端に新卒での就職活動を投げ出さず、ちゃんとどこかに正規雇用してもらえてたら違っていたのかもしれないと悩んだ。また、私も分からないことがあれば聞くようにすべきであったし自覚はあったものの、基本的なことであるのになかなか難しく、甘えかもしれないが、実践できずによく注意を受けていた。
 そのような状況だったため、今のこの環境は私にとってとても有難い。そして心の底からこの人の役に立ちたいと思った。これこそが働くことの原動力ではないか。
 またしばらくして、彼女は「最近眠れている?」と聞いてきたので、ドキッとした。どうして分かったんだろう。彼女は続けた。「毎日たくさん教えてしまって、大変じゃないかなって心配で。」泣きそうになりながらも、私は心を込めて言った。「大丈夫です。むしろありがたいです。こうして丁寧に教えてもらって。」と。
 周りの他の先輩方も、私を見かけると「もう慣れた?」と優しく声をかけてくださった。私はこのようにしてくれたことを決して忘れないでいようと心に留めた。いつか誰かに教える立場になったときに私も出来るようにしたいからだ。
 働くことは生活していく上で重要であるし、1日の大半を占めている。人間関係を大事にし、この人のためになることをと思えることがよりよい労働に繋がると、私は身をもって実感した。

新城文さん(中央)に結婚を報告したラヒルさん(左)とヘランカさん=2日、名護市のダイニングバー「彩」
★2021年11月5日 10:13
常連客が「勝手にクラウドファンディング」 コロナで閉店危機のダイニングバー救う
 沖縄県名護市の名護十字路近くでダイニングバー「彩」を営む新城文さん(74)は、新型コロナウイルスの影響で休業や時短営業が続いた昨年5月、店を閉める覚悟を決めていた。危機を救ったのは、長年交流する留学生を含む常連客。ステーキ2枚と泡盛飲み放題を返礼品に、店を助ける寄付を募るなど支援した。スリランカ出身の元留学生ラヒル・ワナマルさん(32)は2日に店を訪れ「沖縄のお母さんが困っている時、力になりたかった」と報告。新城さんは「みんなが帰ってくる場所を残せて良かった」と涙ぐんだ。(編集委員・福元大輔)
 「彩」は1999年にオープン。カウンター6席、テーブル4席で、新城さんが一人で切り盛りする。県内でコロナ感染が確認されてから、窓がない店内での営業は難しくなった。家賃や光熱費の支払い負担が重く「店を閉めよう」と判断していた。
 窮状を知った常連客が「勝手にクラウドファンディング」を展開。2013年2月にかめに仕込んだ、名護市の津嘉山酒造が製造する泡盛「國華」の飲み放題とステーキを返礼品に、支援を呼び掛けた。
 2週間で秋田や東京、インドネシアなどから26人が「次に店へ行くときのために」と寄付。新城さんは店を続け、県の協力金などを受け、乗り切っている。
 新城さんは「世界の家庭料理フェア」のボランティアなどに参加し、名桜大学や沖縄工業高等専門学校(名護市辺野古)の留学生と20年以上、交流してきた。
 ラヒルさんは2010年、沖縄高専に入学。新城さんの車で買い物や観光に出掛けたことが思い出だ。「長い休みには9階建ての寮に留学生しかいない。さみしい時に『困ってない?』『どこか行きたい?』と電話してくれたことがうれしかった」と振り返る。
 宇都宮大学、大学院に進学し、横浜市にある通信関連の外資系企業に就職。19年8月に同じスリランカ出身で東京大学大学院を卒業したヘランカ・カウシャリャさん(30)と結婚した。
 沖縄の緊急事態宣言が解除されたことから、ヘランカさんと「彩」を訪問。「沖縄での留学生活を彩ってくれたお母さんに紹介できて良かった」と喜び、ヘランカさんは鶏肉とジャガイモたっぷりのスリランカカレーを振る舞った。
 新城さんは「立派に育ち、すてきな奥さんと出会った。自分の子どもと同じくらい本当に感動している」と話した。