花と音楽と沖縄と…

ただ単に、その日見たものを記録してるだけの日記です(^^♪

【今も続く見えない戦争!平和だったらお祭りやってるはず】「空襲なんて怖くない」と歌った友も…那覇の街も青春も奪った 10・10空襲から77年/那覇大綱挽の復活から50年 保存会の兄弟、コロナ後の若手活躍期待~by琉球新報

今も昔も国策に翻弄される一般庶民…大本営発表?学徒動員?少年兵?欲しがりません勝つまでは? 誰と戦ってるのかな? 武器は何? 毎日毎日放送される空襲警戒警報?(妄想です(^-^;)


★2021年10月10日 05:20
「空襲なんて怖くない」と歌った友も…那覇の街も青春も奪った 10・10空襲から77年

10・10空襲を振り返る宮平義子さん=6日、那覇市の自宅
旧那覇市を中心に米軍の大規模な空爆を受けた1944年の沖縄県の10・10空襲から、10日で77年となった。当時、西本町(現在の那覇市西)に住んでいた宮平義子さん(92)は空襲で消えた、モダンな街の様子を覚えている。空襲で同級生を失い、その後に移住した満州では父らを失った。


宮平さんの父は商船会社に勤めていた。宮平さんは弁当を届けながら那覇港の伝馬船に飛び乗って遊んだ。自宅近くには「平和館」という映画館があった。幼い頃は弁士にかわいがられ、ただで映画を見せてもらった。「(米国の女優)シャーリー・テンプルが好きだった。映画に出てくるふわふわのベッドがうらやましかった」


43年に県立第二高等女学校へ進学した。「音楽が優秀な学校で、講堂にオルガンがずらりと並んでいた」。美術教員は画家の名渡山愛順氏。「厳しい先生」だったが、宮平さんは絵を描くのが好きだった。


44年に入ると戦時色が濃くなり「勤労奉仕」に駆り出された。10・10空襲の前日は、がじゃんびらで砲台造りをした。軍の隊長は「これだけお膳立てをして、お客さん(米軍)が来ないと寂しいもんだ。来たらこてんぱんにしてやる」と強がった。それを聞いた同級生が「空襲なんて怖くない」と歌い始め、宮平さんらも合唱した。


10月10日午前7時ごろ、空襲警報が鳴った。自宅にいた宮平さんは軒下の壕(ごう)に両親と避難。さらに上泉町(現在の那覇市泉崎)にある母の実家の壕に逃げた。壕内に爆風が入り込み、「心臓が締め付けられる」ような圧迫感で気絶した。目覚めて外に出ると、爆撃で周囲の家が消えていた。「後に『空襲なんて怖くない』と歌っていた同級生が空襲で亡くなったと知った。ショックだった」


宮平さんの家族は45年1月に大分県に疎開し、5月に満州の勃利(ぼつり)に移住した。だが8月にソ連軍が満州に侵攻。宮平さん家族は山中を逃げる途中でソ連兵に捕まり、父は射殺された。おいとめいも栄養不足で命を落とした。46年に帰国し、50年に沖縄へ戻った。「父たちの骨もない。慰霊の日が来ると『今どこにいるんだろう』と思う」


宮平さんは昨年、戦争体験を冊子にまとめて家族に配った。「戦争を知らない子どもたちに、こんなにむごいんだと伝えたい。二度とこういうことが起きないように」 (伊佐尚記)


★那覇の街を壊滅させた「10・10空襲」未来に残す 戦争の記憶(13:53)

那覇の街を壊滅させた「10・10空襲」 未来に残す 戦争の記憶
477 回視聴2019/03/19
未来に残す 戦争の記憶 - YouTube


★2017年6月21日 19:46
【動画】3分で知る沖縄戦 なぜ県民4分の1が犠牲になったのか
1945年3月~6月の沖縄戦は住民を巻き込んだ地上戦で、当時の沖縄県民の4人に1人が犠牲になりました。沖縄戦とはどんな戦争だったのでしょうか。3分で解説します。
(動画はリンク先で見られます)


★2021年10月10日 05:10
那覇大綱挽の復活から50年 保存会の兄弟、コロナ後の若手活躍期待

第1回那覇大綱挽から毎回参加している比嘉稔さん(右)、晃さん兄弟=7日、那覇市泉崎
那覇大綱挽が沖縄戦を乗り越えて1971年に復活してから、10日で50年を迎えた。那覇大綱挽保存会特別顧問(元会長)の比嘉稔さん(80)と弟で元副会長の晃さん(75)は、第1回から毎回、旗頭などに参加してきた。昨年と今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止されたが、稔さんは「大綱挽は那覇人(なーふぁんちゅ)の誇りだ。なくすわけにはいかない」と後世へ受け継がれることを願う。


71年の大綱挽は当時の平良良松市長が市制50周年記念として計画した。10月10日に開催したのは、44年の10・10空襲があった日に平和を祈るという趣旨や、過去の統計で晴天が多かったことなどが理由だ。戦前の経験者を探し、日本復帰直前の混乱期に市民が一致団結して復活させた。


稔さんと晃さんの伯父で空手の師匠でもある比嘉佑直(ゆうちょく)さんは、戦前の大綱挽で旗頭を持った数少ない経験者。71年に大綱挽実行委員会の理事長を務め、友寄英彦(えいげん)実行委員長らと共に尽力した。「どこの誰は旗頭が上手だったとか、佑直先生が戦前の大綱挽について語る時は熱かった」と稔さんは振り返る。


佑直さんの勧めで、稔さんと晃さんは空手道場やトレーニングジムの仲間と一緒に旗頭に参加した。いつもは厳しく空手を指導する佑直さんだが、「空手の稽古は早く終えて旗頭の練習に行って来い」とせかすほど、旗頭への思いは強かった。当日、稔さんは旗頭行列の進行役を務め、晃さんは泉崎の旗頭を持った。勇壮な旗頭行列や大綱、20万人余の参加者に心が震えた。74年からは西一番の旗頭を持つようになった。


晃さんは85年に県外企業に就職したが、佑直さんは「大綱挽の時は帰って来い」と約束させた。それから99年に帰郷するまで毎回、大綱挽に駆け付けた。阪神淡路大震災が発生した95年には社宅が半壊したが、大綱挽への参加は欠かさなかった。晃さんは「好きだから続けられた。先生との約束もあったしね」と笑う。


稔さんは綱の上で指揮を執る綱方(ちなほう)や旗持を60歳まで続け、その後も運営に関わる。晃さんは今でも旗頭を持つことがあるという。2人は中止を残念がりながらも「若手が頑張っている。今後も発展していくと思う」と期待する。稔さんは「いつでも参加できるように体調を整えておくよ」と笑顔を見せた。 (伊佐尚記)


★2019年10月14日 05:00
初の綱切れで引き分け ギネスに認定された那覇大綱挽に27万人【動画付き】

東西に分かれ、多くの人々が大綱を引き合った「第49回那覇大綱挽」=13日夕、那覇市久茂地の国道58号(新里圭蔵撮影)


第49回那覇大綱挽(主催・那覇大綱挽保存会)が13日、那覇市の国道58号久茂地交差点であった。県民や国内外から観光客など約27万人(主催者発表)が詰め掛け東西に分かれた約1万5千人が大綱を引き合ったが、5分で西の綱が切れた。主催者によると大綱が切れるのは初めてで、裁定で引き分けに。通算成績は東の16勝14敗16引き分けとなった。


秋晴れの下で繰り広げられた那覇大綱挽は午後4時35分に始まり、「ハーイヤ」の掛け声の下で一進一退の攻防が繰り広げられた。世界一の大きさを誇る全長200メートル・重さ40トンの大綱が切れる珍事にも見舞われたが、終了後は引き手、観客ら参加者全員によるカチャーシーで盛り上がり、フィナーレを迎えた。


那覇大綱挽保存会によると、大綱が切れるのは初めて。関係者は「保存状態によって綱の強度が落ちていた可能性もある」としている。


海外からの参加者も目立ち、米国ハワイから県系人の義母ヨシコ・ヤマダさん(81)らと参加したトミー・メイソンさん(55)は「こんな大きな綱は見たことがない」と興奮した様子だった。


★初めて大綱切れた! ギネス認定の那覇大綱挽

初めて大綱切れた! ギネス認定の那覇大綱挽
14,320 回視聴2019/10/13
第49回那覇大綱挽(主催・那覇大綱挽保存会)が10月13日、那覇市の国道58号久茂地交差点で行われた。県民や国内外からの観光客など約27万人が詰め掛けた。東西に分かれた約1万5千人による大綱の引き合いは午後4時35分に始まり、「ハーイヤ」のかけ声の下で一進一退の攻防が繰り広げられたが、5分で西の綱が切れた。主催者によると大綱が切れるのは初めてで、裁定で引き分けとなった。通算成績は勝利数が先行する東の16勝14敗16引き分けとなった。
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